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フクシマ・レジェンド
   
      「フクシマ・レジェンド」

                              
(2011年8月20日)
                                         やべ みゆき


  「レジェンド」とは、「伝説」を指す英語で、「古譚」とも日本語に訳されています。「伝説」や「古譚」とは本当にあったこととして、民衆が口承で伝えてきた物語と定義されています。「フクシマ」が世界的に有名になってしまった今、「伝説」や「古譚」よりも「レジェンド」の方がふさわしいと思い、命名しました。
 私は1961年、福島県安達郡本宮町(現・本宮市)に生まれました。卒業した小学校は、本宮町立五百川(ごひゃくがわ)小学校といいます。五百川小学校は五百川にほど近いところに建っております。五百川とは、奥羽山脈に源を発し磐梯熱海温泉を流れ下り、本宮市で阿武隈川に合流する一級河川です。この川の名前の由来は、今ではすっかり「萩姫が磐梯熱海温泉を探し当てた時に見つけた」こととなっていますが、実はそれは昭和7年に新たに書かれた物語なのです。郷土史をひも解いてみますと、葛城(かつらぎ)(おう)という実在の人物が、時の権力者藤原氏の怒りを買って、奈良の都から追放された時に、「都から数えて五百番目の川より北に行け!」と言われたことが元となっていると記されています。
 この葛城王は、今私の住んでいる郡山とも縁の深い人物で、都から追放される前の、今から1300年ほど前のこと、朝廷への貢物を納めさせるために巡察士としてやってきています。その折に、うねめの勤めを終えてこの地で夫と幸せに暮らしていた美しい女性に一目ぼれし、無理やり都につれて帰りました。それが「安積(あさか)うねめ伝説」となって今に伝えられています。

  さて、話を小学校時代に戻します。五百川小学校では、2年生の春の遠足で二本松方面に行くことになっていました。私は二本松城を見学したはずなのに何にも覚えていません。私の記憶に鮮明に残っているのは、安達ヶ原の鬼婆が住んでいたといわれる岩屋です。鬼婆の使っていたといわれる、錆びた包丁もはっきりと覚えています。この岩屋で旅人を待ち伏せしては、この包丁で殺して食っていたのか・・・何とも恐ろしい光景が目に浮かびました。
  私は、24歳で結婚するまで、安達郡本宮町で過ごしましたので、夫は私を人に紹介する際、「うちのは、安達ヶ原出身だから・・・」とよく申しました。「鬼婆の子孫だから、おっかない」という意味です。福島県では知らない人のいないこの鬼婆伝説ですが、ご存じない方のためにあらすじを語ります。
  (じん)()三年(726年)の秋のことです。東光坊阿闍梨祐慶(とうこうぼうあじゃりゆうけい)という修験者が安達ヶ原で道に迷いました。日が暮れて、寒さに震えていると遠くに明かりがぼんやりと見えました。その明かりを指して歩いていくと、巨大な岩屋の隙間から明かりがもれております。中に入ると、恐ろしげなばあ様がいましたが、気品のある都人(みやこびと)のような言葉で中に迎えてくれました。夜中に、ばあ様が柴木を採りに出て行きましたので、東光坊が奥の間を覗いてみますと、人骨が山と積まれていました。東光坊は観音像の入った笈を背負うと逃げ出しました。鬼婆と化したばあ様が追いかけてきます。「もはや、これまで!」と、東光坊が笈の中の観音像を取り出して一心に祈ると、観音像が宙に浮き光り輝く矢を鬼婆に放ちました。その矢で射ぬかれた鬼婆は正気に戻り、これまでのことを東光坊に語って聞かせ、息を引き取りました。
  鬼婆が東光坊に語った話が、まことに悲しいお話なのです。

  私は、都のお屋敷の姫様の乳母にございます。姫様が三歳になっても口がきけないのを占ってもらいましたら「胎児の生き胆を飲ませれば治る」と言われたものですから、はるばるここまでやってきたのでございます。長の歳月が過ぎ、ようやくおなかにややを抱えた夫婦が道に迷ってここに来ましたので、私は思いきって女人のおなかを裂いてややの生き胆を取り出しました。
 ところが、息絶えた女人の懐から、見覚えのあるお守りが出てきたのです。それはなんと、私がお屋敷に上がるときに我が娘に残してきたお守りだったのです。私は、我が娘と孫を、この手に掛けてしまいました。その時から、私は狂ってしまったのでございます。道に迷った旅人を招き入れては殺して喰らっておりました。なんと罪深いことでございましょう。あなた様のおかげで、私はようやく救われました。ありがとう存じました。(再話/やべみゆき)
  
 平兼盛の詠んだ短歌「みちのくの安達ヶ原の黒岩に鬼こもれると聞くはまことか」によってこの伝説は有名になり、謡曲や歌舞伎で上演されて広く伝わりました。
 私は、子どもの時から良く知っていたこの伝説に、2001年になって再び向き合うことになりました。その年、福島県では「ふくしま未来博」が開催されました。そのパビリオンのひとつに「からくり民話茶屋」がありました。「からくり民話茶屋」では、新しい民話の語り手を200人養成したのですが、私もそのうちの一人です。その養成講座の一コマで、講師の小野和子さん(宮城県在住・口承文芸研究家)はおっしゃいました。
 
 「なぜ、胎児の生き胆を取るのに人の多い都ではなくて、はるばる安達ヶ原までやってきたのでしょうね?そのことを考えてみてください」
  私が子ども心にこの伝説に魅かれていたのは、「おどろおどろしさ」でした。語り手として学び始めてみると、民話には民衆の願いや切なさや悔しさがこめられていることに気付きました。この鬼婆伝説から、わが子を殺してしまった母の悲しみや、主従関係から逃れられなかった当時の人々の苦しみや、観世音菩薩への信仰心を受け取ることができるでしょう。
 そして、もうひとつ、「なぜ、都からはるばる安達ヶ原まできたのか?」という視点から見てみますと、当時の都人たちは都では胎児の生き胆は取ってはいけないけれども、安達ヶ原まで行けば取っても良いと考えていたことが分かります。都人は、この地に住む者を「人」とは思っていなかったのです。都人に「人」とは思われていなかった悔しさを、この伝説の成立の背景に見ることができます。鬼婆は、都からやってきた者なのです。2001年から、夫が私を「安達ヶ原出身」とは言わなくなったのは言うまでもありません。

  歴史は繰り返すと言われますが、都から離れたフクシマならば良いだろうと、都人がおそろしい物を置いて行きました。とんでもなくおそろしい物であると分かってはいても、都人の幸せのためには必要な物だったのでしょう。日本の高度成長を支えるために、電力はなくてはならないものだったのです。福島県は電力事業が始まってからの100年間、火力発電・水力発電の時代からずっと、首都圏の電源地として位置付けられてきました。五百川沿いにも3つの水力発電所があります。3つとも東京電力のものです。その建設工事には、強制労働者として朝鮮の方々がたくさん連れてこられました。急斜面に土木作業をする難工事で、多くの方が亡くなりました。その亡骸を荼毘に附し弔ったのは、国でも東京電力でもなく、地元のお寺さんでした。
 
 1960年代、ちょうど私の生まれたころになると、エネルギー事業転換期を迎え、原子力発電所の建設が始まりました。建設候補地は、海岸沿いで断崖のある地形。何事かあっても首都圏に影響のない場所が必要条件でありました。このおそろしい物は首都圏の経済発展にはなくてはならない物であったのと同時に、建設地にも福をもたらせる物であったため、事態はより複雑に大ごとになっていきました。2008年のデータによれば、世界中で435基の原子炉が運転されています。そのうちの54基が、この狭い島国日本で運転されており、その54基のうちの10基が、福島県の太平洋沿岸に数珠つなぎで建設され、運転されていました。さらに、あと2基の建設計画が進行中でした。
 
 1979年、私は福島大学に入学しました。私のクラスの助言教官は、熱心な原発反対活動家でした。当時、楢葉町に、福島第二原発が建設中であったのです。先生は、私たち学生にも、反対活動に参加するようにと促されましたが、私には、ピンときませんでした。「国が安全だと言っているのだから、いいじゃない。それに地元もずいぶん潤うんでしょ?」と、本当に他人事のように考えていました。少し羨ましい気もしていました。そのころの私は貧乏学生でした。親には高校までは出してもらえましたが、それ以上は甘えられませんでしたので、アルバイトに励みました。せっかく大学に行ったのに勉強はほとんどできませんでした。私が特別に貧乏だったわけではありません。私の周りの学生たちは、みんな同じようなものでした。高度経済成長からとりのこされて、福島県は貧しい県だったのです。
 結局、第二原発は地元から歓迎され、1982年に運転が始まりました。先生は「原発を歓迎するとは、なんという民度の低い県か!」と嘆いておいででしたが、その意味がわかったのは30年後でした。
 
 私は、この伝説にはもう一つの視点があることに気付きました。鬼婆となった乳母ですが、お屋敷の姫の乳母として迎え入れられるためには、家柄も人柄も充分に吟味されたはずです。おそらくは、聡明で美しかったであろう女性が、占いによる迷信に走ることからこの悲劇が始まります。乳飲み子の時に別れたままだった我が子が成人して、幼くして別れた母を求めてこの地を訪ねて来るまで、乳母には都から一切の便りが無かったのです。聡明だった乳母は、迷信に凝り固まって年老いて行きました。安全神話に守られて、老朽化していくままに使用され、ますますおそろしいものと化していったあのフクシマの物と似ています。安全神話とは、すなわち迷信であったのです。
 
 ところで、福島県は合唱王国とも言われています。私も、小・中・高校、大学と、合唱を続けてきました。6年前からは、郡山市の合唱団「はもる・かい」の一員として、ふたたび合唱を続けています。はじめは、語り手としてのボイストレーニングのつもりで参加させていただいたものでしたが、いまではすっかり合唱のとりこになっています。震災後、合唱団はもる・かいで取り組んでいる合唱組曲に、こんなフレーズがあります。
 
♪ 文明の不安よ、科学の恥辱よ、人知の愚かさよ ♪
混声合唱とオーケストラのためのカンタータ
『土の歌』第三楽章「死の灰」より引用
大木 惇夫/作詞 佐藤 眞/作曲 1962年
 
 このたびのことで私たちは、文明の不安、科学の恥辱、人知の愚かさを思い知らされました。ライフラインが止まり大切な人に連絡が取れないという「文明の不安」、それぞれの専門家がそれぞれの主張をし人心を惑わす「科学の恥辱」、大地震により暴走する核エネルギーを前に為すすべのない「人知の愚かさ」。このフレーズのあと「ヒロシマの、またナガサキの・・・死の灰の怖れは続く」と合唱は続いています。そして今、フクシマが「死の灰」の町として今世界中に知れ渡ってしまいました。
 
 1980年代に一度、私は原発について学ぶ機会があったのに、その機会を逃してしまいました。子ども達に、安心して生きられる土地を手渡してやることができなかったことが悔やまれます。私にできることは、こうして語ることなのです。「五百川伝説」」にも「安積うねめ伝説」にも「安達ヶ原伝説」にも、この地に住む者の悔しさ、都人の振る舞いへの憤りがこめられています。
 世界中の昔話や伝説には、鬼婆や山姥がたくさん出てきます。その象徴するものは「飼いならされない女たち」であると伝えられています。その意味では、夫の言っていたことは正しかったのです。私は、安達ヶ原出身の鬼婆として、怒りや悲しみを知っている一人の人間の務めとして、この先もずっと、この地に住む者たちの思いを物語に託して、語り継いでいこうと決意しました。もう決して中央集権の文明や文化に飼いならされることなく、美しく豊かな郷土・福島県を取り戻すために…。


 <この物語は、語り手たちの会の「地球お話し会」で初めて発表され、「語りの世界」53号に収載されました>

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