【靴(くつ)を隔(へだ)てて痒(かゆ)きを掻(か)く】と読みまして、痒いところに手が届かなくて、はがゆくもどかしい思いをすることを表す言葉です。
出典は『無門關』の序文です。
佛語心爲宗、無門爲法門。
仏語心を宗と為(な)し、無門を法門と為す。
清浄な心を宗(むね)とし、入るべき門の無いのを法門とするのである。
既是無門、且作麼生透。
既に是れ無門、且(しば)らく作麼生(ソモサン)か透(とお)らん。
さて、入るべき門がないとすれば、どうやって通るのか。
豈不見道、
豈(あ)に道(い)うことを見ずや、
こうも言うではないか
從門入者不是家珍、從縁得者始終成壞。
門より入る者は是れ家珍(カチン)にあらず、縁に従いて得る者は始終成壊(ジョウエ)す。
門から入って来るものは宝とは言えない、世の出来事はやがて壊れる。
恁麼説話、大似無風起浪好肉抉瘡。
恁麼(インモ)の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡(きず)剜(えぐ)るに似たり。
こういう説話は、風も無いのに波を起こしたり、綺麗な肌のキズを抉るようなものだ。
何況滯言句覓解會。 掉棒打月、隔靴爬痒、有甚交渉。
何ぞ況(いはん)や言句に滞って解会(ゲエ)を覓(もと)むるをや。
まして言葉尻に拘(こだわ)って、詮索するとは、もってのほかであろう。
掉棒打月、隔靴掻痒、
棒を棹(ふる)って月を打ち、靴を隔てて痒を掻く、
棒で月を打とうとしたり、靴の上から痒みを搔くようなことで、
有甚交渉。
甚(な)んの交渉か有らん。
どうして真実なるものと交わることができよう。






























