【我(われ)を非(ヒ)として當(あ)たる者は、吾(わ)が師なり】と読みまして、私の妥当を欠いている点を指摘してくれる人があれば、その人こそ私の師であるとして尊ぶ、という意味です。
出典は『荀子』修身篇です。
見善,脩然必有以自存也、
善を見れば,脩然(ショウゼン)として必ず以て自ら存(かえり)み、
善なる状態を見ると、必ず体をととのえ愼む気持ちになって、
我が身をふりかえってみるものであり、
見不善,愀然必以自省也。
不善を見れば,愀然(シュウゼン)として必ず以て自ら省(かえり)みる。
不善なる状態を見ると、必ず憂え慎む気持ちになって、
我が身をふりかえってみるものである。
善在身,介然必以自好也、
善、身に在れば,介然(カイゼン)として必ず以て自ら好み、
(我が身に関して)善であるときには、その状態を固く守って自らよしとし、
不善在身,菑然必以自惡也。
不善、身に在れば,菑然(シゼン)として必ず以て自ら惡む。
不善であるときには、おそれつつしんで、その不善をにくむものである。
故非我而當者,吾師也、
故に我を非として當(あた)る者は,吾が師なり、
このように、私の妥当を欠いている点を指摘してくれる人があれば、
その人こそ私の師であるとして尊び
是我而當者,吾友也、
我を是として當る者は,吾が友なり、
私の妥当な点を認めてくれる人こそ、正に私の友であり、
諂諛我者,吾賊也。
我に諂諛(テンユ)する者は,吾が賊(ゾク)なり。
私にこびへつらう者は、私をそこなうものである。